2007年3月31日土曜日

時代の証言者、全面勝訴 水俣病患者救済に道

水俣病はチッソの工場廃液による公害である、と政府が認めたのは1968年(昭和43年)9月のことでした。チッソが、問題のアセトアルデヒドを製造中止して4カ月後のことです。前年の67年~68年3月にかけ、新潟、四日市、富山、と次々に公害患者が提訴に踏み切っていました。このころ新潟水俣病の患者たち12人が、列車を乗り継いで水俣まで行きました。連帯しようと水俣の患者互助会を励ましたのです。新潟の患者の1人は(夜汽車がつらく、死ぬかと思った)といっていました。しかし困難は続きました。賠償の調停に乗り出した厚生省は69年2月、チッソと患者互助会に、調停する第3者機関の委員選定は厚生省に一任することや、けつろんは一切異議なく従うことの確約を求めました。患者互助会は内部で対立しました。私は訴訟しかないと思いました。政府は水俣病の公式発見から10年以上も原因を認めず救済を遅らせた以上、政府も加害者ではないかと考えました。私も水俣へ行き、支援団体の代表と一緒に患者互助会の会長の自宅を訪ねました。夜でした。互助会の会長は部屋に上がれとも言わず、冷たい風が吹き込む玄関の土間で長時間の押し問答になりました。(政府に何度も裏切られてきたのではなかったか。政府の解決策に応じても、この先、問題が出てくるのではないか)(いや裁判なんて庶民がやって成功したことはない。それよりは厚生大臣は地元選出の園田直さんだ。園田さんは水俣病を公害として認めてくれた恩人だから、一任すれば間違いない)チッソに賠償をもとめていた患者互助会はやがて、政府一任派、訴訟派、直接交渉派などに分裂した。112人の患者は69年6月、チッソを相手に損害賠償訴訟を熊本地裁に起こした。直接交渉派はチッソ本社前に座り込むなどに発展した。73年の第一次訴訟判決は全面勝訴でした。小額の見舞金で終わらせようとしたチッソを厳しく批判して法的責任を確定させました。死者の補償金は政府調停の額を大きく上回り、四大公害裁判では最高額になりました。チッソと保障協定も結ばれ、裁判に加わらなかったすべての患者の道を開きました。69年ごろになると、新たに患者が名乗り出てくる現象が起きました。長い間、市民はチッソに遠慮していたので、患者は差別され、名乗りにくかったのです。自治の力が弱く(チッソあっての水俣)という風土が水俣病の実態把握を遅らせていた訳です。例えば、市の広報紙を過去にさかのぼって全部読んでみたのですが、驚くことに、水俣市は水俣病のことを広報紙にほとんど載せていませんでした。水俣の地域をどう再生するか新しい課題でした。7人の研究チームで、水俣病の実像や行政責任、地域構造を徹底的に調べました。この共同研究の成果から77年に(公害都市の再生、水俣)という本ができました。水俣市はいま、(エコシティ)を掲げて変わり始めています。ほんとうに時間がかかりました。悔やまれるのは、水俣病が発生した初期に、地域全体で全員の健康調査」をしていなかったことです。この時に徹底した疫学調査をしていれば、水俣病の全貌を把握でき、いまのように水俣病の症状の定義が揺れて患者を救済できないということがなかったもしれません。国に訴えかけても国は動かず、国のための国民ではなく、国民のための国であるはずが、どうしてこんなに時間がかかるのか、ここでも国民投票が必要になる。

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