涙をぬぐうことなく泣いていた。いすに座っていたのか、床にひざまずいていたのかも記憶にない。今年2月。オートバイで世界一周の旅をしていた杉野真紀子さん(34)は、89カ国目に訪れたメキシコで父、勝幸さんの訃報に接した。享年68歳。(葬儀には間に合わないから帰らなくていい)と、姉からのメールに書かれていた。それから1週間、現地の教会に通い詰めた。植民地時代の面影を残す礼拝堂で、ただ泣き崩れた。地球のすべてを見てみたいーそんな思いで2002年8月、富山港からロシア、ウラジオストく行きのフェリーに乗った。かたわらには愛車のオフロードバイクがあった。機会設計の小さな会社を営んでいた父がクモ膜下出血で倒れたのは、その7年前。寝たきりになった父を母の和子さん(63)が付ききりで介護をした。家計を支えたのは2人の娘。姉は衣料品メーカーで、真紀子さんはバイクショップで、昼夜の別なく働いた。容体が少し回復したところ、母が決断した。あとは私が全部背負って娘たちを自由にさせてやろう、と。(その自由が、オートバイで世界をまわることだとは想像もしなかったけれど、、、、)母は苦笑まじりに振り返る。世界を一周したいと言う気持ちがなぜ芽生えたのかは、自分でもよく覚えていない。少なくとも21歳で自動二輪の免許を取った時には、いつか果たすべき夢と思いを定めていた。すでに走破したいたオーストラリア以外の大陸を、欧州、アメリカ、アジア、南米、北米の順に巡る。そんな旅の終わりまでに資金が底をつかないよう、出費は1日10ドルに抑えようにした。うち1ドルが食費で、9ドルがガソリン代。1食しか食べない日も多く、大半の夜を野宿で過ごした。危険は覚悟していた。2003年3月に入国したアフリカのスーダンでは内戦が始まりつつあった。1カ月後に隣国チャドとの国境が閉鎖され、首都に向かう道路は反政府勢力に占拠されて通れなくなった。迂回路を進んだが、幾度も銃声を間近に聞いた。心温まる思いもある。パキスタンでオートバイの通行が禁止されたトンネルに差し掛かった時のこと。わざわざトラックを用意し、愛車を荷台に載せて通り抜けてくれた地元住民がいた。異郷の地で触れた人情に、目頭が熱くなった。最後に父を見たのは昨年6月だった。チリで交通事故に「巻き込まれ、足をけがをして帰国。父と同じ病院に入院した。集注治療室の父は、呼びかけても全く答えなくなっていた。だが、最初に倒れた時から10年以上がたって、いつ死んでもおかしくないと言われながら、今もこうして生きているのではないか、まだまだ大丈夫と自分に言い聞かせ、翌月、再び日本を離れた。(死に目にあえないかもしれないけれど、、、)出発の日、父にこう語りかけたが、7カ月後にそれが現実になるとは思わなかった。(そばにいてやれなかったのではなく、いてやらなかったのだ)メキシコの教会で初七日を迎えたた真紀子さんは、自分を責めつつ、再び全力で走り始めた。せめて初盆は実家で迎えようと思ったからだ。1カ所に1泊以上とどまることなく毎日500キロを走り続けた。父が亡くなってから、むしろ以前より父を身近に感じるようになった。アラスカの原生林の道を走っていた時。中学3年から2年間、家族でブラジルに住んでいた日々を思い出した。(あのころに通った道と似てるよね)まるで横に父がいるかのように話した。7月26日、ロサンゼルスに到着、予定より約4カ月早く旅が終わった。91カ国を訪れ、29万4000キロを走破した。ロサンゼルスの友人に愛車を譲って単身帰国したのが8月2日。娘のことを案じ続けた母は(命を持ち帰ってくれた)と涙した。幼い日にキャッチボールの相手をしてくれた父。オートバイに乗る自分を静かに見つめながらビデオを回してくれた父、、、、感謝の思いを伝えられなかったことが心残りだ。旅先で幾度となく危険にさらされながら切り抜けることができたのも、父が守ってくれたおかげと今は思っている。(無事に帰ってきたよ。ありがとう)毎朝、父の写真に語りかける。それが日課になった。
地球裁定、いい経験をしましたね真紀子さん、感激しましたありがとう。
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